まず、広く読んで欲しいので、改めて、本書が明らかにしたことをできるだけ簡潔にまとめてみます。過度に簡潔にまとめると意味不明な要約にしかなりませんが、とりあえずのとっかかりにお使いください。
本書は、音響再生産をめぐる理念と活動をどのように明らかにしたかという観点から記述できます。音響再生産という理念がどのように登場し、理解され、社会に浸透していったか、また、音響再生産という理念のもとで行われる諸活動はどのように始まり、社会に浸透していったか、といったことです。 以下、いくつか列挙しておきます。
1.この本は、音響再生産をめぐる理念と活動が、19世紀中頃を境にそれ以前とそれ以降でかなり変化したことを明快に描き出しています。スターンによれば、それ以前は口をモデルに作られていた音響再生産機器が、19世紀中頃に、耳の代わりに機能するものとして、耳をモデルに機能するものとして作られるようになりました。それゆえスターンは、音響再生産の起源には聾がある、と述べるのです(エジソンやベルなど「聾者」だけではなく)。
2.この本は、音響再生産のための聴取の技法の登場と変化に着目することで、近代における感性の歴史を聴覚を中心に描き出しています。聴診器の歴史と電信の歴史が並行的だったことが明らかになります。 知的あるいは科学的に信頼できる調査手段として聴取が採用されるようになった時代と領域を精査し、その「形態学的類似」(216)を指摘しています。
3.また、この本は、聴診器や電信やヘッドフォンの聴取のために発達した聴覚型の技法が、西洋近代特有の聴覚の使い方であり、それがどのように「合理的な理性」と関連付けられるようになったか、ということが明らかにします。この歴史は決してあらゆる時代と集団にあてはまるものではありません。これは、例えば“狩りにおいては「耳」が大事”という話ではなく、ある特定の集団全体の身体の技法が発達した、という話だからです。なので、例えば、農耕しか知らなかった古代のある集落の人々がある時狩猟活動を始め、そこから数十年でどのような経過を辿ったか観察できれば、同様の過程を観察できるのかもしれません。
4.この本は、音響再生産技術がメディアとして社会的に受容される前に、技術を受容する文脈が技術を受容する方向性をすでに決定してしまっていたことが語られます。ラジオは電話で電話はラジオだったという話です。そしてさらには、そのようなメディアと技術の関係性の背後にあったものが語られます。
5.この本は、ハイファイな音が望ましい、という考え方の起源と構造を明らかにします。音響忠実性をめぐる言説構造――再生産される前の音(オリジナル)と再生産された音(コピー)との同等性(=音響忠実性)を理想とする言説――のなかに私たちが見出すのは、技術とその使用者との共犯関係です。
6.音響再生産技術が可能にした、音を再生産できる形で記録するという行為は、19世紀のある特定の文化的活動と並行的に生じて発展してきた営為であることを明らかにしています。録音と、缶詰制作と死体防腐処理は、内的要素を改変しても外的要素を保持しておけば機能する(=「オリジナル」と同等の存在とみなされる)という点で、並行的な現象なわけです。
僕は、初め、この本は画期的なメディア論であり画期的な感性論だ、と思っていました。またすぐに、この本は画期的な近代史であることにも気づきました。なので、訳者解説ではこの本の意義を、マクルーハンとキットラーを補完するものと説明しました。つまり、基本的には、画期的なメディア論として、また画期的な感性論として位置付けました。さらには音響研究の基盤を開拓したものとしても位置付けました。訳し終えて今は、この本は画期的な社会科学とも言えるかもしれない、と考えるようになりました。この本は、ある社会における階級間の感性の差異がどのように表れるか、といったことを考えるうえでも多くの示唆を与えてくれるのではないか、と考えるようになったからです。
とはいえ、以上はすべて僕の読み方です。訳者としては、この本の読者がそれぞれにさまざまな面白いものを読み込んでくれることを期待します。読み込まれたものが積み重なって何かに結実してくれるならば、大変嬉しいことです。そういうものが出てくることを楽しみに待つことにします。
次に、学的領域の名称に関する補遺です。これは内容的にもそんなに重要ではないと判断しましたし、また、字数の関係で落とした部分です。落とした部分をそのまま再録しておきます。
「ところで、蛇足かも知れないが、学的領域の名称についてひとこと。「音響研究」とは「Sound Studies」の訳語である。ただし、私は自分の専門領域の名称としては「音響文化論」あるいは「聴覚文化論」という用語を用いている。訳者の肩書と本書で用いる用語との不統一はご容赦を願うとして、その理由を説明させていただきたい。私は、少なくとも今のところは、日本語の「音響研究」という言葉に工学的なニュアンス――「音響学」という言葉に類したニュアンス――を感じてしまうので、人文学の一領域を指す用語としては少し抵抗を感じている。また、Sound Studiesの訳語候補の一つだった「音学」という訳語にも工学的なニュアンスがこびりついている。日本では2013年より音楽情報科学研究会が年に一度「音学」シンポジウムというものを開催しているが、これまでのところこのシンポジウムにはいわゆる「人文学」的な研究は含まれていない。それゆえ私は今のところ自己紹介においては自分の専門領域を音響文化論あるいは聴覚文化論と呼称するが、それはSound Studiesという名称の直訳ではない。私は、Sound Cultural StudiesあるいはAuditory Cultural Studiesというような用語に対応するものとして、音響文化論あるいは聴覚文化論という呼称を利用している。マイケル・ブルとレス・バックに近いといえるが、私の個人史のうえでは、visual cuturral studiesの聴覚版、という意識が強い。いわゆるカルスタの延長線上に出てきた視覚文化研究の延長線上としての、音響文化論あるいは聴覚文化論、である。以上が訳者の肩書と本書の用語法とがすれ違っている理由である。
さらにもう一点。実は私は、音響研究、サウンド・スタディーズ、音響文化論、聴覚文化論、聴覚研究等々の名称の区別にこだわりがない。名称が異なるのだからその内実も弁別されるべきだろうが、現状では(とくに日本では)まだ、それぞれの名称のもとで多くの論考が生産されているわけではないし、それぞれの内実の差異もさして大きくないように思われるからである。訳者の肩書に音響文化論を用いているのは、この方が人文学として理解されやすかろうと考えるからである(少なくとも私の場合は)。とはいえジャンル名について厳密に考察すべき場合もあろう。その場合まずは、表象文化論学会(編)『表象09 特集 音と聴取のアルケオロジー』に収められた座談会を参照されたい。ともあれ本解説では、スターンに従って「音響研究」という用語を用いて解説を進めていく。二段落続いた逆接と留保の連続にも謝意を示しておきたい。」
今も僕は名称に強いこだわりがないままに「音響文化論」という名称を用いていますが、名称はともあれ、この領域を盛りあげようとしている活動を宣伝させておいてください。
本書の共訳者と、本書の訳者のうち2名が参加した谷口文和・中川克志・福田裕大による『音響メディア史』(京都:ナカニシヤ、2015年)の共著者とが、この共著と共訳の刊行をきっかけに今年度から「音響文化研究会によるトーク・イベント」を開催しています。これは、毎回ゲストを迎え、音響研究あるいは音響文化論あるいは聴覚文化論のトピックについてじっくり話を聞いて議論を行おうというイベントです。これは、スターンや音響研究に刺激された私たち音響文化研究会の面々が新たに何かを生み出そうとする活動である、とも言えるでしょう。
最後に、一点だけ指摘しておきたいことがあります。
スターンによる「視聴覚連祷――W.J.オングに代表される、聴覚や視覚の歴史性を考慮に入れない思考――」に対する批判の論拠は、それが神学的なイデオロギーであることに求められています。ということは、キリスト教の影響の薄い地域における「視聴覚連祷」に対する批判が、今後の課題として残されています――念のため断っておきますが、もちろんスターンは、自分の論が世界中に普遍的に適応するものだなどと主張していません――。が、この問題は、この短い「訳者解説:補遺」で論じられるほど簡単な問題では無いので、指摘するに留めておきます。
他にも色々スターンの論への批判はあってしかるべきだと思いますが、読者諸賢にお任せします。これだけ指摘しておきます。
以上、訳者解説の補遺としていくつか述べさせていただきました。
とにかく訳者としては、ようやく日本の読者にも気軽に手にとっていただけることになったスターン『聞こえくる過去』を手に入れて読んでいただけることが一番です。よろしくお願いします。多くの読者に読んでもらって、少しずつでも音響文化研究――音響研究でも聴覚研究でも構いませんが――に関する関心が高まるといいなと思っています。さらには、そこから何か面白いものが出てくると、大変嬉しいことです。日本の人文学では、優れた人文書の翻訳が出た後に文化の動きに何か面白いものが生じる、ということがしばしば起こってきたと思います。だれも未来については確実にはわかりませんが、かつて起こったことはまた起こるかもしれません。なので、訳者としての僕もそういうことを期待して、そういうものが出てくることを楽しみに待つことにします。